9月だ。静岡公演が終わったところである。今日は劇場バラシだけして楽屋は残す。明日の朝に楽屋をばらして東京へ出発。この通称「楽屋残し」と言われる日は、劇場のバラシは昼過ぎに終わり、そのあとわりとゆっくりできる。その土地を満喫したり、自分の作業をしたり、いろいろできる。好きな時間。
前々回の続き、楢山節考について考える。小説そのものというより、読む前に予想してた印象と実際に読んだときの体感の落差について、よくよく考えている。モノを書くことについて、だけではなく、演技をすること、演劇を作ることについても、重要な契機がそこには含まれている気がする。
「土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじいお話」という予想が裏切られた。そういう類の小説ではなかった。では「そういう類の小説」とは何だろうか。と、前回の終わりに書いた。
どうも、「対象との距離」というのがひとつキーワードなのではないかと思う。
ある文章を思い出した。その引用からはじめてみる。こちら。劇団どくんご、構成・演出、どいの氏のブログである。このブログには演劇について考える本当に様々なヒントを貰った。どくんごと知り合った当初、遡ってほぼすべての記事を読んだ(と思う)。
今回の問題を考える中、演者は「対象との距離」をどのように持つか、ということが書かれた記事があったなーと思い出す。仙台の舞踏家であり、劇団どくんごとも大変懇意な、僕も今年初めてお会いできた、西瓜さんの踊りについての感想だった。
<西瓜さんは暗黒舞踏系の流れを組んでいるんだろうけど,ある時突然奇跡のようにポストモダンが降臨する。《中略》ダンスにおける演者の感情というのはどういうふうに考えるべきなのかわたしにはいまひとつわからない。だが叙事,叙情という印象は持つ。身体と対話する時に演者は何を考えているのだろう。たとえば長内真理さん(青森。コンテンポラリー系の踊り手さん)のダンスは演者の感情と身体はいったん切り離されている印象を持てる。演者は距離をもって自分の身体を観察し感受している。だが,「暗黒舞踏」にはその距離を感じられることが少なく,何かを(対象に同一化する方向で)演じているかのように感じることが多い。「DISTANCE」のあの衣裳のもっている柔らかい印象,叙情,物語が,わたしが(演者も?)身体に直面することをさまたげている。《中略》手足のアクションだけをきっちりみたいのだが,それをスカートが邪魔をする。視界を遮るだけではなく,手足に女性性という意味づけをも与えてしまう(…もしくはそう思われてもしょうがない形象をつくりだす)。身体を身体として(「外科医のように」)即物的に眺めたい。>
ここで書かれている「叙事・叙情」ということ。必ずしも自分の考える、もしくは作りたい見たいと望む演劇と同じかというそういうわけではなく、ここから出発して考えていかなければいけないことが多々ある。しかし、問題はかなり整理できる。
「演者の感情と身体はいったん切り離されている」
「演者は距離をもって自分の身体を観察し感受している」
(=叙事)(そして、=ポストモダン)
「暗黒舞踏にはその距離を感じられることが少なく,何かを(対象に同一化する方向で)演じているかのように感じることが多い」
(=叙情)
つまり、何が言いたいのかというと、楢山節考を、私は、暗黒舞踏のような小説と予想していたのだけど、違った、ということだ(そして、私は、暗黒舞踏を、「土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじい」モノと、受け取っていた、ということだ)(どっちがいい悪いという話ではない)。
とことん叙情的な小説かと思っていたら、違った、ということだ。
ではとことん叙事的な小説であったかというと、そういうわけではない。
情感には溢れている。しかし、澄みきっている。対象を突き放している。
「SF」と言ったのもそのあたりにある。この辺にさらに突きつめて考えていかなければいけないポイントがある。
巻末の解説にはこんな風に書いてある。
(前略)たしかに、深沢氏のつくり出すイメージの世界の強さについては定評がある。誰もが認めざるを得ない。たとえば中村光夫氏は、深沢氏のかくものは、夢のもつとりとめなさと「現実性が不気味に出ていて、凡庸な私小説作家の事実に頼った描写よりなまなましい印象がある」とのべているし、また大岡昇平氏は、深沢氏が奇妙になまなましい語り手であり「選ぶ言葉に喚起力がある」ことを認めている。なぜか。あらゆる素材が物として捉えられる存在把握、ないしは存在透視力、ないしはメタフィジックにもとづいているからである。
周知のように深沢氏にとって世界とは、それ自身としては何の原因もない「自本自根」のものすなわち無であり、空間の拡がるかぎりの時間の及ぶところ、何時はじまって何時終わるとも知れない流転である。万象はその一波一浪にすぎない。あらゆる事象は「私とは何の関係もない景色」なのである。このような作家が、作中に登場させる人物たちをあたかも人形か将棋のコマのように扱ったとしても無理はないであろう。心理とか感情とかは一切みとめない。物として処理する。これは前述の『楢山節考』をみてもはっきりしているので、向う村の後家は、亭主が死んで三日もたたぬのにヤモメになったばかりの辰平と結婚しなければならない。いや、しなければならないのではなく、するのがあたりまえなので、当人たちにとっても、村人達にとっても、後家とヤモメが一緒になるのは<自然>だし、またみごもった赤子を「捨ちゃる」相談を夫婦でするのも<自然>なのだ。このように深沢氏は、近代の人間中心的な思想とはまったく対蹠的な地点に立っている。これは深沢氏が徹底したアンチ・ヒューマニストであることを示している。
さすが文芸評論家という文章。いろいろ勉強になる。しかし、この解説が、楢山節考をきちんと分析しつくせているかというと、やや留保がある。まだもう少しそれだけで収まりきらない部分がある気がする。それはまた考えていくとして、しかしこの解説、この日記の文脈にはびっくりするほどはまっている。どいのブログに書いてあることにもかなり通じる。そして、私が書きたい物語、作りたい演劇のヒントも、かなり示されている。
楢山節考に関しては、もうだいたい書くべきことは書いた。この日記は、作品を分析しつくすことが目的ではなく、それを読んだ刺激をテコにして、自分が書きたい物語の形を、自分が作りたい演劇の形を、きっちりと言語化することが目的である。対象との距離の取り方をしっかり考えること、距離を測る作業を日々実践していくことが目的だ。そういう作業を、いま、徹底してやる必要を感じている。
「身体(対象)と対話する時に演者(作家)は何を考えているのだろう」
対象との距離をどのように取るのかという問題。
限りなく同一化をはかりそこに潜む情念をあぶり出していくのか。
一定の距離を取りながら観察し記述していくのか。
問題をほんの少し整理できたところで今日はここまで。
中々少しずつしか進まない。考え続ける。少しずつ書く。
次の公演地へ参る。