リアリズムへの翻訳

大阪公演が終わって岡山にいる。関西が終わった。そして本州はこれが最後。

旅は後半戦を着実に進んでいる。

 

明日から岡山公演。中二日の旅日程なので今日は欲張らずに書けることだけ書く日記。

 

大阪公演は、改めて、いろんな知り合いに見にきてもらえた。

神戸、京都、福井、我孫子、東京、そして大阪。

札幌や豊橋、名古屋でも、縁のある人に、沢山作品を見てもらえた。

有難いことだ。まだまだよき旅を続けていく。

でもひとつ大きな通過がまたあったのだなーという感慨。

 

広島、大阪と、かつてテント芝居をやっていた作家の方、それも女性の方と、それぞれじっくりお話をする機会が出来、とても身に染みる言葉をもらった。もう少し自分の中で消化してからここにも近いうちに書こうと思う。

 

読書は前々回の日記の宣言どおり、バルザック読み終わり、ジュネ「泥棒日記」を読んでいる。

旅の日程的なこともありこちらは中々進まんけど、非常に楽しく読んでいる。これはとてもいい。

思うことを文章にするにはもう少し時間がかかりそうなのでそれは読み終わってから。

 

バルザック、だいたい前々回に書いていた通りなのだけど、解説がまた面白かった、というか、教科書的なことを、教科書的に書いてくれていたので、自分のために転載。昭和18年10月の文章だそう。

 

リアリズムへの翻訳。これもまた、今後の自分にとっての、ひとつの大きな課題である。

翻訳をしなければならないわけではなく、そういう目線を常に持っていること。

リアリズムからの逸脱、飛躍を図るにしても、一度、具体を通るということは、とても必要なことだと思っている。

つまり「叙事」である、ということだ。

 

「これらの人物の喜怒哀楽は、空を掴むような情緒の表白によらず、必ず具体的な事実に翻訳されている」

 

そういう術、身につけたい。

定期的に、バルザック、読んでいくのが一番いい気がする。

 

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バルザック「ツールの司祭」解説 水野亮

(前略)それぞれ根差しの深いこれらの情熱が論理的な繋がりを持つ行為に順を追うて具体化されてゆくうちに、もとより個人的色彩は甚だあざやかながら、特定の階級なり身分なりを代表する典型人物が次第に構成されてゆく。僧職の世界は勿論のこと、貴族あり、市民階級あり、婢僕あり、更に法曹界の事情にも筆が及んでいるというわけで、ツール社会の縮図をここに見ることができるのである。

しかもこれらの人物の喜怒哀楽は、空を掴むような情緒の表白によらず、必ず具体的な事実に翻訳されている。ガマール嬢から理不尽な扱いを受けるピロトー師の悲しみは、脹脛のまわりの寸法が、五六分ほど減少を見せたことで現される。トルーベールは彼の秘密の一端を握っているガマール嬢、すなはちピロトー追出しの相棒をかねがね厄介者視していたが、いよいよ彼女の死を迎えることができたとき、このタルチェフまがいの偽善者は彼女の柩の上で灌水器をヤケに振り廻す性急な身振りによって、思わずもその内心の歓喜をさらけ出してしまう。(中略)

一個の情熱を取り扱うとき、彼はある人がいったように「こまかく目の結んだ布地を織り上げる」ような周到な準備作業によってこれを現実の具体的な行為に翻訳し、かかる情熱に煽られる各人物の不可避的な行為の組合せによって描かんとする事件に論理的な発展を辿らせる。一面また彼は、その情熱の根差しの深さを究めるが故に、たとえばガマール嬢の虚栄というような取るに足りない情熱でも、結果においては他の偉大な情熱と等しいほどの破壊力を振うという事実を証拠立てて見せる。かかる見地に立つとき、地方都市の僧侶階級の葛藤を描いた短編「ツールの司祭」は、題材と地味と規模の小にも拘らず、その写実味と社会的意義において、いかにもバルザックらしい小説ということができるであろう。(中略)

因みに本編は、フランスにおいて写実小説としても条件を完全に具えた最初の作品と称せられる。

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「ガマール嬢から理不尽な扱いを受けるピロトー師の悲しみは、脹脛のまわりの寸法が、五六分ほど減少を見せたことで現される」

 
こういうところが、ごまのはえっぽい。
今日はここまで。また岡山おわりで。次は四国だよ。