読書日記

「罪と罰」読了。

ドストエフスキー読み返し月間にしようと思う。

数えてみると(悪霊以外は)10年ぶりらしい。

 

読み進めていて、思ったより、普通の小説なんだな、これ、と思った。シンプルなプロットが隙なく組み立てられている。その筋立てから顕れてくる人物はさすがのドス節だけど、それも他の小説と比べると程よく抑制されている。サスペンス、対立構造が明確だからそう感じるのかもしれない。

 

また、野田の贋作を演劇初期にビデオ擦り切れるほど見て(死語)いて、再演は生で観て、衛星放送の録画DVDもやはり沢山みたくちで、初読のときは贋作をガイドラインにして小説を掴んでいたことにはっきりと気づく。小説の物量・グルーヴに確かにおお!とはなったのだけど、読み返すに、(当たり前だけど)表現として(魅せ所は)まったく別物じゃないか!と理解。

贋作、前半はかなり忠実だけど、後半部はかなり違う。そこに翻案の上手さもある。が、両者を分かつポイントもある。とりわけ小説のソーニャへの告白から実際に「十字路に出て…」をラスコが行為するまでそしてラストで本当の「回復」が訪れるまでの直線でなさ。贋作は、ポルフィーリィとの最終対決を前に持ってきて、ソーニャへの告白とスヴィ対ドゥーニャを併行に描くことで芝居のクライマックスを作りそのままラスト(回復)へ直結させているのに対し、小説は、かなり、ぐだぐだする。逆にそこまでは小説もかなりスリリング(これも初読の印象と違った)。そして、このぐだぐだが、ミソなのだと、感じる。ラスコーリニコフという「人間」を(エンタメに拠らず)最後まで追いかけている、と。

 

原作に忠実な部分に関しても、大事なところの違いがもうひとつ。人間と人間がガチに対峙するとき、ひとりの人間が狂ってしまうときの、物理時間では計れない(永遠とも感じる)時間、が、ドス小説の真骨頂で、小説は、その「時間」によって、まさに人が動き、物語が回転している。

が、贋作は、それが演劇(時間芸術)のダイナミズムの中に非常に的確に回収されて(しまって)いる。制限時間が決まっている中で、狂う、みたいなことだろうか。

これは初読のときも感じていたことで、今回で、ようやく言語化された。

しかし、そして、その「時間」を演劇であらわす(演劇時間のなかで構成する)ことも、きっと、できるのだ、とも思った。どくんごのどいのさんがそういうシーンを「白い時間」と言っていたように思う。

 

もうひとつ。これ、はっきり、ヒューマニズム(ヒューマニティの喪失と回復の)小説だったんだな。裏表紙の解説にも書いてあるけど、初読のときは全くそう受け取ってなかった。描かれるヒューマンの幅たるやさすがの腕っ節だが、スヴィドリガイロフ筆頭の奇奇怪怪たる人物たちも、最終主人公の「回復」に回収されるような小説構造になっている。そして、これ以降、彼はこういう構造の物語を作らない。悪霊はヒューマニズムが壮絶にしくじりまくる話だし、白痴・カラマーゾフはヒューマニズム志向は強くあるが小説全体がそこに回収されないような結構になっている。興味深い。

罪罰に関しては、二人の母の存在・厚みがミソだと思う。二人の存在は、主人公(の回復ための物語)に役割的にとても奉仕している。この母性(そして父性)、悪霊では徹底して掛け違う。ワルワーラの子がスタヴローギンで、ステパンの子がピョートルで、ワルワーラとステパンのロマンスも掛け違い…ザッツ・笑劇化する。もうひとつ、ラズミーヒンにあたる人物がこれ以降の小説で現れない(ように見える)ことも重要だ。

 

これらが本当にそうなのか、何故そうなのか、他作を読み進めながら、引き続き詳細に見ていきたいと思う。前後の中短編も読んだほうがよいのだろうな。未成年も未読なので今回は読まねばなるまい。

 

次は白痴に参ります。

(少し寄り道をしてから)