近々書きたいこと

俳句に関しては、蕪村がよい。ぱらぱらとめくって読んで。

何がよいのか、自分の句とどう違うのか考える。

 

蕪村の句は、身体が、ある。

そして、だから、身体を通した、感情があらわれている。

滑稽だったり、哀しかったり、ごりっとした物と滑稽さ、物を相手にした、ペーソスがある。

 

風景が、物として、あらわれている。

だから、身体があらわれてくる。

そして、その身体をとおして、

感情があらわれてくる。

(なるほど!)

 

私は、どちらかというと、風景に、自分(の身体)を消していくような句の読み方をしているのかもしれない。それ自体が良い悪いでなく、自分のほしい言葉を獲得していくために、もっと、身体(が言葉にあらわれること)にこだわっていくべし、ということだ。

自分の言葉に、身体を、あらわしていく、試行錯誤をしていくこと。

 

蕪村の句に、なぜ、身体を感じるのか。

たぶん、対象と自分とのあいだの、彼我のあいだの、距離を、詠んでいるからだ。

距離とは、つまり、関係だ。

関係とは、つまり、距離だ。

(なるほど。)

 

彼我の距離を捉える、とは、つまり、彼我の「別」を知ることなのかもしれない。

彼は彼で、我は我で、「別」なのである。

そこに距離がうまれ、関係がうまれ、感情が生まれる。

「物」であることとは、つまり(ワタシとは)「別」ということ、なんだ。

「別」がつくれたら、つまり、身体(ワタシ)、感情は、(ある程度)自動で生じる、ということなのかもしれない。

俳句の、17文字のなかで出来る(すべき)ことって、それくらいなのかもしれない。

 

こう、考えたうえで、彼我がくっついてもつれあっているような句、そして言葉、

それをあえてを書けるならば、それは、それで、展開のさせようがあるような気もする。

でも、それしかできない(ことを知らぬままそれしかやらない)ことは不足であると、

いまの私は思っている、ということだ。

 

対象との距離、とは、数年前、どくんご旅中に、執拗にこの日記に展開していた(そしてそれをいま読み返してもなるほどと思う)ことだ。

その、次が、すこし、見えた、ような気がする。

 

そんなことを、考えていたら、オシャレについて考えたくなった。

というか、それがなんなのか、急に、はっとした。

オシャレって、感覚的にはわかるものがあっても、うまく言語化してこれずにいた。

でも、すこし、わかった気がする。

 

オシャレって、

自分(の身体)から、

果てしなく遠いモノ、自分の身体ではないモノ、つまり他者的なナニカ、を、着衣する、

ことなのではいないか。

 

その、仕草、のことではないか。

その、関係、ではないか。

(その、関係、を、取っている、様態、のことではないか。)

 

着衣するとは、つまり、

身体は、身体のまま、

モノはモノのまま、

両者を、接着させる、

その行為、やり方、ではないか。

 

これまで、私は、とりわけ、演出としての私は、

(自分の)身体のことばかり、

そして、その身体が、世界にどう働きかけるか、

自分(の身体)発で、自分と、世界のことを、

考えていたのかもしれない。

 

モノも、言葉も、

自分の身体の延長にあるモノ(つまり自分の身体)として、捉えていた、

のかもしれない。

この日記で展開してきた思考、

沸騰も、シラけた目も、背後空間を背負うことも、

自分の身体を基点に、世界を拡張すること、展開させること、

そういう行為として捉えていた。

 

それは、それで、とても必要な取り組みだ。

 

でも、それだけでは、足りないのだ。

それだけでは、身体は、世界は、仕上がらないのだ。

 

なにか、そういう、自分発の、自分から世界に働きかけるロジックとは超越した、

遠い遠い、あるいは、果てしのない、ワケのワカラヌ、

モノ、物体が、

自分の体をアラワスためには、必要なのだ。

仕上げの、隠し味のような、他なる物体が、世界の完成(あるいは世界を完成させない)のためには、必要なのだ。

 

そうでないと、世界は、言葉は、身体は、表現は、息苦しくなる。狭くなる。

 

たとえば、私の俳句(言葉)のために、必要なものは、

私とは違う、しかし、私を呼び覚さずにはいない、

他なる物体=言葉。

それを、他なるまま、私の言葉・身体の連なりに、どう、接着させるか。着衣させるか。

それを考える。

逆に、それが、成功しているものとしての、例を集めて、眺めてみる。

 

①③

それは、外に目をむける、ということだけではない。

アウタースペースと同時にインナースペースにも目を向けていくことだ。

 

言葉は、身体を、裏切る。

身体は、言葉を、裏切る。

言葉は、言葉を、裏切る。

身体は、身体を、裏切る。

 

それぞれのナカにも、ソトにも、他者・モノ・別、は、ある。

思うようにならぬ、言葉。思うようにならぬ、身体。

それを発見していくことだ。

 

演出をするにあたって、

舞台に立つ身体の拡張、つまり、背後空間の構成、

また、そのために必要な、基点としての身体の、構成。

言葉の持ち方、吐き方、投げかけ方。

(昨年の日記からの思考もひろうと、)

役者を、生贄にしていくのか、司祭にしていくのか、を、考えること。

そのバランス、塩梅。

これらの方法を探っていくことは、ひきつづき、継続して、やっていくべきことだ。

これはこれで、いま、また、あのときから展開されたある蓄積を、身体に感じる。

それを言葉にして、整理して、その次を、思考していくべきだ。

 

でも、それだけでは足りないのだ。

それがわかった。これは、とても、大きい。

 

たとえば、私は、クルミドコーヒーは、とてもよい場所だけど、すこし、息苦しい。

それが、なんでか、わかった。あそこは、とても、緻密に、ひとつひとつ、自分たちの思考や身体を展開させて、あの空間を作っている。やさしいし、まじめだし、もてなして、そして、向き合ってくれる。そこにも、世界がある。

でも、あそこには、あの人たちの、身体しか、ないのではないか。

あそこには、大切なもの、しか、ないのではないか。

しかし、私は、それだけでは、足りないのだ。

なにか、ヌケ、が、吹きぬけるナニカ、が、自分の世界には、必要なのだ。

そういう、他なるモノを、ワタシは、求めているのだ。

 

クルミドコーヒーについてもやもや考えていたとき、それに対して、

仙台の、モーツァルトというカフェのことが、たびたび頭に浮かんでいた。

あそこは、ヌケている。ような、気がする。ということだ。

よくわからぬものが空間にまぎれこみ、そのよくわからなさが、そこにあるもに、風をあてているのだ。

他なるモノが、他なるモノのまま、ひとつの空間に、着衣、というか、重ね合わされている。

ということではないか。

 

余談。ピンク地底人2号さんがチラシの打合せをしていたときの雑談で「笑の内閣ほどオシャレなことをやっている団体はない」と言っていたことも思い出した。おもしろいなーと思いながら、その言わんとしていることが、なんとなく引っかかるものがありながら、寄せきれずにいた。そして、内閣よりもよっぽど、オシャレ、とか、センスがよい、という感想や印象を持たれているであろうピンク地底人については、「うちは地底人の地上にあこがれるうんぬん……」と、ある種、自分の身体の延長で話していた。そのときはおもしろいなーと思いつつどういうことか引き寄せきれずにいた感覚、この視座からならば、了解していける、ような気がした。これに関しては気がしただけで、そんなにしつこく考えていくことでもないが。

 

まとめ。

近々書きたい、と言いながら、けっこう書いてしまった。

もう少し、私をまったく知らない他人が読んでも、わかるような文章にしたいと思っていた。

 

そうすることで私の思考も私の身体から切り離される。

切り離されて言葉として眺めかえすことではじめて次なる思考が生まれる。

次なる思考が生まれることではじめて次なる取り組みが生まれるのだ。

(なるほど!)

 

と思っていたのだけど、結構書いてしまった。書けてよかった。

まだまだ対象とワタシはねちねちに粘着してもつれあっているが、

それでも書いて、少しずつ切り離して、考えていくのだ。

 

他なるモノからの、身体のひきたて。世界のひきたて。

そのために、他なるモノの選択、召喚、その方法を、同時に、考える。

 

ではまた。