自分の作った句でまともだなーと思うものをあげてみる。
ツバメおり陽がしずむ幣舞橋や
桜の下ちょこんとオオイヌノフグリ
すみれ咲く疎水のコンクリートの隙
あるシンプルな発見がある。
これらの句は、風景のなかに、あるそれを受信する何かを、置いている。
ツバメ、オオイヌノフグリ、すみれ。
モノとモノとの関係が書かれている。
すると、焦点が、しっかり合う。
「風景と私」しか関係がない、つまり、ざっくりと風景しか書いていない句は、いまいち、掴みどころがない。例えば。
花を待つ雨を聴きつつ夏想う
桜から灰降る街を酔い歩き
北向きの窓に漏れ入る春の日よ
透き通っている、と見ることもできるが、やっぱり、ぼんやりと、情緒しか浮かんでこない。
掴みどころがない、というのは、先の日記に書いた、身体がない、ということだ。