2018年
4月
11日
水
歌声
ヒゲを手まねきして、マユゲは、扉の中へ入っていった。
誰もいなくなった、まんまるの満月が照らす路地を、ヒゲは、歩きだした。
どこかの建物から、かすかに、歌声が聞こえてくる。
ヒゲの知っている曲だった。言葉は違うがメロディーはたしかにあの曲。
ふぁーらすぇすぇすぇふぇ~~~。
ヒゲは、扉の入口に立ち、看板をみあげた。
ふぁ~らふぇ~すぁ~らふぇ~。
読むことはできないがこの国に入ってからたびたび目にしたためいくらか見慣れてきた文字。
ふぁーらすぇすぇすぇふぇ~~~。
ここは、なにかの建物で、ここは、その、入口なのだ。
不思議と怖さは、もう、なかった。
マユゲがひらいたままにした扉を、ヒゲは、またいだ。
どこかの歌声は終わったようで、つづいて大きな笑い声が聞こえてきた。
ヒゲは、扉を閉めた。
ばたん。
薄くらい静寂がヒゲをつつんだ。
目がなれてくると、赤い絨毯のうえに、ヒゲは立っていた。
短い廊下があり、その先に、階段があった。
2018年
3月
27日
火
袋小路
突然、マユゲは立ち止まった。袋小路だった。
ああ、やっぱり。ヒゲは観念した。
マユゲがゆっくりと振りかえる。
なにかを喋っている。
わからない。
マユゲは笑う。
なぜ?
マユゲは後ろを指さした。
振り返った。
月。
まんまるの満月だった。
薄ら雲を透かしながら外国の夜空を照らしている。
夜風がびゅうと袋小路に入り込んだ。
マユゲはヒゲの横に立っていた。
空をさしてなにかを言っている。
なんとなくマユゲの言うことがわかったような気がして、ヒゲはうんうんとうなづいた。
ヒゲに何かを言うとマユゲはまた振り返り袋小路の奥へ歩きだした。
石の建物に囲まれた石畳の狭い路地の奥の石の壁には扉があった。
さきほど暗くてよく見えなかったがいまははっきりと見て取れた。
入口の上には読むことのできない文字で書かれた看板。
マユゲは扉をあけた。
2013年
10月
29日
火
夜の町
マユゲに手をひかれヒゲは夜の町を歩いた。港町だった。
埠頭に沿って屋台が並び、皆が酒を飲み、何かを食べている。
赤だの黒だのの、どろどろした、ヒゲの見たことのない食べものが並んでいた。
馴染みのないアクの強い匂いがただよっている。
楽しげであった。皆、ヒゲの知らないコトバで喋っている。
ヒゲもお腹がへっていた。からだも冷えこんでいた。
磯の香りのする、ぐつぐつ煮込んだ屋台の料理を食べたくなった。
しかしマユゲは足をとめず通りをどんどん進んでいく。
ときどきヒゲをふりかえり何かを喋りかけた。ヒゲもなんとなく愛想わらいをして応えた。
にわかに屋台がとぎれ、人気のない、路地に入った。
ヒゲの国ではあまり見かけない、石だたみの、狭い路地だった。
ふるびた重たい石の建物が並んでいる。
ヒゲは不安になった。どこに連れていかれるのだろう。
ニュースで見たことがある。異国の、なにもしらない旅行者をねらった犯罪…
甘いささやきにのって命を落とす。そんなこともあるのかもしれない。
ヒゲが死んだら、ワタシはかなしむだろうか。
マユゲはどんどん路地の奥に入っていく。
2013年
8月
27日
火
マユゲ
マユゲは近づいてきた。
マユゲの口がゆっくりとひらく。ヒゲは息を飲んだ。
すると、マユゲはヒゲが聞いたこともないようなコトバを喋りはじめた。
ヒゲの国のコトバとは、違う、コトバ。
訥々と深みのある調子で、ゆっくりと、マユゲはなにかを喋っていた。
マユゲじゃない? ヒゲは混乱した。
たしかに目の前にいるのはマユゲだ。
しかし、喋るコトバやモノゴシやシグサは、ヒゲの知るマユゲのそれではなかった。
マユゲはたしかにマユゲだ。しかし、ヒゲの知るマユゲではない。
つまり、彼女は、ワタシのマユゲでは、ない。似ているがちがうダレカのマユゲだ。
ヒゲの混乱をよそに、マユゲはヒゲにむかって喋りつづけていた。
遠い目をして、ときどきはにかみながら、訥々と、なにかをヒゲに語りかけていた。
戸惑っていると、マユゲはさらにヒゲに近くに寄ってきて、ヒゲの手を取った。
ヒゲは心臓がとまりそうになった。
マユゲはやさしくほほえむと、ヒゲの手を引っぱり、夜の町へと歩き出した。
2013年
6月
19日
水
異国
見たこともない文字が並んでいた。なんだこれは。ヒゲは混乱した。
さっきまで船の中ではみんながヒゲの知っている言葉で喋っていたのに、
いつの間にか、まわりにいるだれもが、ヒゲの知らない言葉で喋っていた。
酔っ払いのサラリーマン、秘密話をしている若者、電話をするOL。
笑ったり、怒ったり、無表情だったり、
ヒゲのよく知るワタシやワタシの友だちとさほど変わらぬ顔立ちの者もいれば、
ヒゲがあまり見たことのない皮膚の色や目鼻のつくりのものたちもいた。
どこか、みないじわるく、ヒゲをはめようとしているように見えた。
ヒゲは心細くなった。
そのとき、ヒゲは、呼ばれたような気がした。
振り向いた。そこに、マユゲがいた。
ヒゲは目をうたがった。彼女はたしか。
ヒゲがじろじろ見つめる目をまっすぐにマユゲもヒゲを見ていた。
マユゲに見つめられていることに気づきヒゲはどぎまぎした。
ヒゲにとってマユゲは憧れの存在だった。
生まれたときからワタシとともにいたマユゲ。
ヒゲとおなじでなんのために存在するかはっきりはしないが、
ワタシという存在の印象を決定的に左右させるマユゲ。
見上げるとそこにはいつもマユゲがいた。凛としてそびえるマユゲ。
マユゲはいつもヒゲにやさしく微笑みかけているように見えた。
マユゲはワタシと分かちがたく結びついていたはずだった。ヒゲよりもずっと。
それがなぜ遠い異国の地にいるのだろう。
ヒゲが静かに混乱をしているとマユゲは近づいてきた。
ヒゲは焦った。ヒゲはマユゲと話す心の準備は出来ていなかった。